歴史上の人物

2007年2月24日 (土)

歴史上の人物 林則徐③

  ( ^∇^ )ノ” コンチワー

 では、アヘン戦争への突入を書いていきます。

 さて、林則徐は、戦争をしようと考えていたのでしょうか?

 答えはNOです。だってやれば負けるってわかっていたか

 らです。清が成立してから、すでに200年が過ぎ、太平の

 世を満喫している国と、対外侵略を積極的に行っている

 英国が戦っててるか・・・。林則徐がどこまで、正確に

 対外事情を認識していたかははっきりしませんが、

 鎖国状態にある国の中で、唯一の貿易港で外国相手に

 ぎりぎりのやり取りをやっていいた者と、内陸で、外国

 と触れることも無かった中央政府を比べれば、どちらか

 が、より知っていたかは言うまでもないでしょう。

  実際に、アヘンを取り締まった林則徐は、外国(英国の

 ほかにアメリカなどもアヘンを持ち込んでいました)に

 対して、アヘンの代償として、茶を差し出すことを提案

 してますし、なにより、アヘンを今後持ち込まないとの

 誓約書を提出すれば、今後の貿易はいままでどおり

 行ってもよいとしたのです。アメリカ商人はこれに応じ、

 誓約書をすぐに提出して、貿易を再開しています。

 英国の監察官のエリオットは断じて、応じませんでした。

 監察官って、お国の役人さんなんですがね。

 「アヘンなんて、麻薬を密輸するな!!」って相手の国が

 いってるのに、国の役人は「やだよ、輸出するよ」って言って

 るのと一緒ですよね?

  まあ、エリオットが本国に報告する際に、かなり脚色して

 (自分は悪いことしてませんよ~って)報告したとは思いま

 すが、結局戦争になります。もちろん、エリオットが勝手に

 戦争始められませんので、当時、英国はすでに立憲国家

 でしたので、議会で決をとることになりました。

  その演説で、後の首相となるグラッドストンの下記のよう

 な演説がありました。

 「このような将来に不名誉となる戦争を、私は聞いたことがない。

 広東にひるがえる旗は、禁制品の密輸を保護するために、翻って

 いる。私たちはそれを見ただけで、恐怖を覚えるのだ。」

 まあ、妥当だとおもいません?密輸させないから、戦争するって

 一国の議会で決定することですか?

  結果は、戦争賛成271票、反対262票で可決・・・

 開戦すると、英国は、広州には攻め込まなかった。

 林則徐は広州で、しっかり守りを固めていた。

 英国にとっては勝って当然の戦争。とくに初戦は

 苦戦はしたくない。そこで、英国は天津に攻め込んだ。

 皇帝の住んでいる北京のすぐそばである。

 皇帝他中央政府は、遠く離れた南の端の広州で

 おこっていることで、はっきりいって、対岸の火事くらい

 にしか思って無かった。そこに突然、英国の攻撃にさら

 され、アヘンの禁止を応援していた皇帝も、手のひらを

 返す。英国と約束して、林則徐の罷免をおこなってし

 まうのです。

  彼は、アヘン問題の最前線から、はずさた。

 戦争はもちろん、一方的になる。海上から好きなところ

 に攻撃できる英国に対して、清側は守るのも間に合わ

 ず、敗戦。不平等条約の締結と同時に、アヘンも黙認

 する結果となる。(条約ではアヘン問題は触れられてい

 ません。形にのこしたくなかったんでしょうね。)

  林則徐はこのあと、新疆へと左遷された。

 のちに、太平天国の乱が起こった時に、欽差大臣に

 任命されたが、任地に赴く途中で病死した。

 左遷されたあとで、再び欽差大臣として、任命される

 など、彼の力量はたしかなものだったのだろう。

  しかし、やはり清廉潔白、正直ものは馬鹿をみる

 といったところなのだろうか。彼は、最後まで清のため、

 祖国のためにはたらいた真の政治家なのではないで

 しょうか。

  駄文や、勘違いも多々あるかと思います。

 また、林則徐の魅力を十分に伝えられないもどかしさ、

 もありましたが、ここまでお付き合いくれた方、

 ありがとうございました。気が向いたら、違う人物で、

 またやりたいと思います。

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2007年2月20日 (火)

歴史上の人物 林則徐②

さてさて、いよいよアヘン戦争突入と

いきたいところですが、ちょっと回り道^^;

はやく話進めたほうがいいのかもしれませんが、

ちょっとこの当時の中国の状況を説明させてください。

当時の王朝名は「清」!!

ちなみに、日本も清とは戦争したました。

「日本がイチヤクヨ(1894年)に出た日清戦争」

と覚えましょう。

さらに、ちなみに日清食品は由来は「日々清らかに」

という意味で、日清戦争とは関係ないそうです。

おまけで、ラッパのマークの「正露丸」はもともとは

「征露丸」と書きました。当時、日露戦争中というこで、

「ロシアをやっつける」という

ネーミングがうけて大ヒットしたそうです。

 かなり話が脱線しましたが、

中国は全人口の約92%が漢民族ですが、

「清」の皇帝は漢民族ではありません。

「清」は元々満州人が興した国です。

満州とは朝鮮半島の北の方になります。

そこに住んでいた人たちが、中国を征服して作った

征服王朝でした。キン肉マンをご存知の方は

中国人といえばラーメンマンと思うでしょう。あの頭・・・

Photo_1

実はこれ、辮髪(べんぱつ)と言って、

元々中国にあった髪型ではありません。

満州人が中国を支配した際に強要した髪型なんですよ~。

ちなみに(ちなみにが多すぎとか言わない!!)

インド人といえばターバン巻いているイメージないですか?

実はあれはインドに住んでるシク教という宗教信者です。

インドの大多数はヒンドゥー教徒ですので、

実際に巻いている人は少数です。

 と、脱線しまくりですが、

「清」の時代には日本は江戸時代でした。

当時日本が鎖国(日本人の海外交通を禁止し、

外交貿易を制限した政策)したのと同様に、

「清」でも鎖国をしていました。

といっても、日本がオランダ・中国のみに

限定したのとは違い、広州の地だけに限って、

貿易を認める形となったのです。

 さてさて、ではなぜアヘンが大量に

「清」に流入してしまったのでしょうか?

簡単に言えば、英国が対清貿易の大赤字を

逆転するための切り札としたのがアヘンだったのです。

当時、英国では喫茶の風習が上流階級を中心に広がり、

大量のお茶を中国から輸入しました。

今ではインドのアッサムなども茶(アッサムティー)

の産地となっていますが、

当時は茶といえば中国だけの状態でした。

そのため、英国の対清貿易は大赤字となっていたのです。

もちろん、茶の輸入に見合う輸出品があれば、

赤字にはならないのですが、

なかなか、うまいこといかないのです。

当時、英国が得意だった毛織物はまったくうけません。

あれって、好みありますよね。

おれはチクチクして嫌です^^;

なにより、この貿易が中国の伝統だった朝貢貿易

という思想に基づいていることが一番影響してます。

中華思想という言葉があるように、

古代からこの時代に至るまで、

周辺地域における中国は先進地域であり、

周辺の夷狄(読み:いてき、

意味:未開の民や外国人。野蛮な民族。

からの貢物にたいして、

あくまでお恵みを与えるといった

考えにたっております。

よって、英国が「これだけ、お茶買ってるんだから、

       なにか買ってよ」と言っても、

「うちはどこよりも進んでいる地域だから、

   必要なものなんてないも~ん」

といった感じで取り合ってもらえないんですね~。

それで、英国も困るわけです。

「お茶買うのやめたら、午後ティー飲めないじゃん!!」

(言ってないですよ、こんなことは絶対に!)

「でも、このまま買い続けたら、

  どんどんお金なくなっちゃうよ。どうしよ~・・・」

と困っていると、「インドでさ~、とってもいいものが

とれるんだって。それ輸出すればいいんじゃない?」。

英国人が目をつけたのが、

当時、植民地状態だったインドで取れる

とっても気持ちよくなれ物でした。

そうこれがアヘンです。

彼らはインドに綿織物を売り、

インドからアヘンを清へ売り、清から

お茶を買うという三角貿易を確立したのでした。

       

  英 国 → 綿織物 → インド

  インド → アヘン →  清

   清  →  茶  → 英 国

すいません、ほんとは三角形の図を作りたかったの

ですが、私の技量不足で、図が書けませんでした;;

  

 これが、バカうけ!!

英国が思っていた以上にアヘンが売れたんです。

赤字を補填するどころか、

信じられないくらいの黒字が出たんです。

こうなると、立場が逆転!

清もほおっておけない状態となり、

本気でアヘンを取り締まろう

ということになって登場したのが「林則徐」という

わけでした。

 本日はこれまで!

まったく話が進んでいません。申し分けない;;

ちょっと、言葉遣いも最後は崩れておりますが、

これはご愛嬌ということで、流してください。

次回をお楽しみに^^

(楽しみにしてないとか言わないでくださいね^^;)

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2007年2月19日 (月)

歴史上の人物 林則徐①

  \(☆^〇^☆)/ オバンデス

 ちょっと、今日は新たな試みです!!

 あくまで、わたくし特別な週末の個人的な考えなどを、

 加えながら、好きな歴史上の人物の紹介をしてみたいと

 思います。ただし、ちょっとじっくり書こうとおもうので、

 今回は第一段としたいと思います。

  こうみえて、私!!(どう見えてだ?)大学時代に、東洋史

 を専攻するほど歴史がすきなのです。そんな私が好きだった

 中国の政治家のお話です。名前は林則徐(リンソクジョ)。

 中国は「清」の時代の人物です。

 

  林則徐(1785~1850年)。欽差大臣としてアヘンの問題

 に立ち向かい、アヘン戦争突入後も、英国に対して毅然とした

 態度で臨み、戦争を起こした張本人として、新に左遷された。

  彼は、広州に欽差大臣としてアヘンの取り締まりに全力をかた

 むけます。欽差大臣とはちっちゃな皇帝みたいなものです。

 全権を委任され、その地方ではこの大臣の命令は皇帝の命令

 と同じくらい重いものとなります。

  この当時、アヘンは禁止品ではありましたが、官僚も賄賂を

 得て、黙認している状態でした。アヘンとは未熟なケシの身に

 傷をつけて、出てくる乳液を乾燥させ、黒い粘土状の固形物

 にしたものです。麻薬の一種です。しかも驚くことにこのアヘンを

 中国に持ち込んでいたのは英国であり、これは国家あげての

 事業だったのです。

  官僚もアヘンの甘い汁をたくさん食らっていた時代に、林則徐

 は違いました。彼は清廉潔白な人物でした。彼は、北京で皇帝

 に欽差大臣に任命され、はるか離れた広州へむかう途中、地方

 官たちの接待を一切ことわりました。この当時、中央で任命され

 た上官を盛大にもてなすのは、地方の常識でした。しかし、林則

 徐は前もって、このような歓迎をしないように、各所に伝令を飛ば

 して一切させませんでした。接待は民の搾取で成り立つもので、

 そのようなもてなしは受けられないと考えたからです。

  広州について、彼は、英国商人のもっていたいアヘンをすべて

 ださせ、焼却処分しました。といっても、ただ燃やしただけでは、

 アヘンは完全に無害なものにはならないのです。燃やしたあとの

 灰からも、純度は低いですがアヘンが残るのです。(2~3割くら

 いがもう一度生成できるようです。)

  しかし、彼はわかっていました。浜辺で、海水と消石灰による

 化学反応を利用して、完全に無害なものにしてしまったのです。

 英国商人はホントに驚きました。いままでも、アヘンを取りしまる

 と言った役人はたくさんいました。しかし、みな言葉だけ!!!

 形だけ「皇帝陛下の名の下に!!」といいながら、

 こっそりフトコロにしのばせる役人ばかりだったのです。

 だから、商人たちもタカをくくっていました。

  このとき、没収されたアヘンは1425万トンとのことです。

 まさか、信じられないほどの大金になるアヘンをホントに処分など

 できないと信じていたのです。

 しかし、彼らの考えはまったくもってはずれました。

 林則徐の本気具合と、国家の大事業を台無しにされた

 英国との対立は決定的となり、いよいよ、清と英国との

 間に歴史的に不名誉なアヘン戦争が始まることとなるのです。 

 

 今日はこれでおしまいです。好評なら続けます。

 駄文で申し訳ありません;;

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